パワーストーンの力

神秘の力で幸運あれ?

オカルトというものを信じる人も少なくないでしょう。口では否定しているようなことを言っている人でも、本質的なものではそういった霊的なものを否定していなかったりします。そもそも人間として行動しているのであれば、必ずオカルト的なことをしたことのある人もいるでしょう。正直なことを言うと、オカルトを完全否定している人の言葉ほど、私はうそ臭いということで嫌悪します。人間誰しも必ずそういったオカルト、つまりは奇跡という現象を信じていた時期は必ずあります、特に世界のことをよく理解していない、少年時代のような無垢の心を持っているような時期にとっては神秘的な象徴であるオカルト系などを信じていたことは誰だってあります。幼少期の頃から世界の裏側を覗いたことのある、人間の汚い部分ばかりを直視していたから世界なんてものは非常に現実的で夢も希望も溢れていない、なんて子供の頃からそんなことを哲学的に考えている子供の方が奇怪に思えます。そういう思考をして、徐々に大人へと成長していくとその過程で世界とはどういうものなのか、という仕組みを理解していって神秘というものが存在しないと初めて肯定するわけです。それなのに、幼少期からそんな魔法やらが存在するわけない、ということを子供の頃から言っていることの方が以上というものです。

人間というものはないものに焦がれるものです、焦がれるからこそ神秘的な存在を欲するようになります。そしてそれを大人になることで現実と空想を二分しつつ、その軋轢に摩擦されながら人生という階段を上がっていくわけです。でも人間そんな擦り切れてしまった環境にいると、疲弊してくるのは当然のことでしょう。だからこそ人は神秘的なものに恋焦がれて、時にそういった偶像崇拝に自分の願望や欲望を託すわけです。自分の力だけではかなえることは出来ないからこそ、そういった力を持っている石や道具に願いを託すわけです。

神社でのお参りなどでも願掛けや、絵馬に願いを記すことで願いを成就してもらうということも同じことです。パワーストーンに宿っているエネルギーはこういうものである、ということに対して賛否両論というような、形のない話をしていくわけではありますがそもそもそういった力の類を視覚的に認識する事は出来るものでもありません。こういうことをいうと台無しになってしまいますが、気持ちの持ちようですべてが決まってしまう、というのが極論となってしまうわけであります。

石に宿る力

そもそもパワーストーンというのは何なのかということですが、一般的には特定の力が込められている特別な石、というのが通説となっております。宝石とどう違うのかということになりますが、それは力がこめられているか否かということでしょう。ですが一般的にオカルト的な見解で考え得ると、宝石もパワーストーンの一種であると考える人もいます。私にとってはパワーストーンと宝石との垣根というものはそこまでないですが、現実的な線引きをするのであればパワーストーンは『お守り』、宝石は『贅沢品』という風にみなしていますが、オカルト的なことでみるとしたらパワーストーンは『贋作』、宝石は『真贋』という風に考えています。偽者か否かということになるのですが、これはあくまで私の見解なので一般的な通説ではないのでご注意ください。

そもそもこういった石に宿る力というものも不確かなものですよね、金運が上がる、健康になれる、恋愛運が上昇する、どれもこれも人間の都合の良い考えばかりです。人間なんて自分の都合で術の物事の尺度を決める傾向にあります、自然にしてもなんにしても、自分たちが理解できないことは全てデタラメだ、インチキだと言ってしまえば全て解決します。こういったパワーストーンなどを販売しているほとんどははっきりいってしまえば、インチキ商法と見て問題ないでしょう。力の流れというものは人為的に人間は込められるものではないです、そもそも石という年月を積み重ねたものに特殊な力をこめるということになると、かなりの時間を掛けなければパワーなんてものは宿ることはありません。そもそも自然の流動で生み出されるものに人間が少し施しただけで、自然産物を都合よく改ざんすることは不可能です。そんなことが出来れば人間の技術というものは、すでに人間という枠からはみ出しているということに繋がっていきます。それが出来ないからこそ、人間は現在でも飛行機といった機械の塊を使わなければ飛べませんし、宇宙を開拓するということも未だに満足に行うことが出来ません。それだけの技術が発展していれば、私達の生活そのものは今とは全く違った法則で満たされた形で構築されることになります。

宝石という名の神秘

パワーストーンというものに力が宿っている、実際に購入したら良いことが沢山あった、といった広告で掲載されている商品を雑誌で見たことのある人も多いでしょう。ああいうのを見るたびに誰が信じるんだろう、と常々思ってしまいます。広告写真に撮影されている明らかに胡散臭い顔をしている男の人の顔を見て、信じる気さえ失せてしまいます。それでも購入する人が後を立たないということは、それだけ日々の生活に追い詰められている人が圧倒的に多いという事です。それはつまり、願掛けでも何でも良いから、今の状況を改善したいという願いから神秘というものにすがろうとするんでしょう。悪いことだ、とは言いません。むしろ実に本能的な行動で、自分に対して忠実に従っている獣に近い行動であると私は認識しています。

ですがたかだか数千から数万円程度で購入できる石に、本当に神秘の力が宿るのかということを疑問視していただきたい。その意思の値段に関してどのような査定を用いられているのかは分かりませんが、ほとんどが儲け重視の贋作であるということを証明していると、私はそう考えています。そんなものを買って信じ込まされているなら一桁上の宝石を購入したほうが私個人としては圧倒的に良いでしょう。それこそ私は価値よりも力という概念が込められていると思えます。

宝石というものは長い年月を掛けて鉱物の中で微量にしか生成されない成分と成分が重なり合って生まれるものです、その重なり合う可能性も極小の奇跡というものが存在しないと起きない現象だと思いませんか? そういうことを考慮するとパワーストーンなどよりも、こうした宝石の方が力というものを得られるという意味ではより正しいと考えられると思っています。魔術の世界の中でも宝石というものは呪術に利用していることが頻繁に行なわれています、だからこそ歴史上や様々な作品の中で宝石というものが貴重な魔術の道具であるということが取り上げられているのです。時間という概念は魔術の世界では非常に意味のあるものです、人間にとっては時間とは制約のある窮屈な縛りでしかないと思いますが、時間という月日があるからこそ魔術というものは大きくなっていきます。それは力も同じこと、力というものは時間を積み重ねることで大きくなっていきます、そんな積み重ねを少し石の加工をするだけで得られると思いますか? 否、ですよね。

パワーストーンというものを信じて効力を発揮していると思うのも自己の都合ということになってしまいますが、オカルト的に考えたら私はパワーストーンほど贋物という言葉が似合う道具はないでしょう。出来損ない、と言っても良いでしょうか。ひどい言い方ではありますが、私にとってはパワーストーンというのはそういうものとしか見えないのです。

人間の欲望の体現化

そもそも人間の欲望というものを体現するということは、それは摂理に対しての反逆を意味していることになるのでは、と思っています。欲望を抱くということに関しては忠実な動物としての行動本能として受け入れるしかないですが、そういった動物的衝動をそのまま実現できるという事は、それはもう人間としての機能をほとんど失ってしまっているでしょう。それは人ではなく、動物といったほうが正しいかもしれません。

動物というものは自らの本能に忠実なものです、そこに理由を見出すとしたらそれはその動物はそうすることで己の生存本能に従って行動するだけです。それが捕食であり、繁殖でもあります。それ自体に理由を問うことはありません、それをしなければいけないということを無意識にしろ無いにしろ自覚しているからです。食べるということに意味はないのです、ただお腹が空くから他の動物を狩るだけなのです。自分の子孫を残さなければいけないから、本能で同種のメスを探して交尾活動を行ないます。ここでの行動に雄と雌の間に同意といった人間特有の協定など存在しているわけなく、本能的なものでしかないのです。

人間の尺度というものは人間だけにしか適用できない、それは誰もが知っていることです。『おなかが空いた、ご飯を食べよう、でもどうして食べなくてはいけないのか、それは身体機能に異常をきたしてしまうから、だから私達は食事をしなければいけない』、簡単な仕組みですね。でもこういった生きるための生存本能に対して、人間は理性という枷を使用することで抑制できるのです。それがダイエットということであり、カロリーを落とすということに繋がるのです。動物は先ほどの流れに対して非常に忠実です、そこに一切の疑問は持っていないのです。食べること、寝ること、交尾すること、どれに対しても忠実に実行するだけなのです。でも人間はこういった行動を自省しなければいけません、そうしなければ知性を持っている動物として成立しないからです。

人間の欲望というものを全ての人が表面的に顕在させている世界を想像してみてください、そこに秩序という世界はなく、常識というルールは破壊され、ただ本当で支配された混沌があるだけです。パワーストーンというものの力で本当に人間の欲望を満たすことができてしまうというのは、こうした本能を揺るがす大事件といえるのではないでしょうか。でもそれが表立ってないということは、それはパワーストーンを利用している人の多くがそういった力を信じていることで、叶うと思い込んでいるに他ならないのです。これが出来るからこそ人間の世界というものは守られているのです。ですがそういった本能を抑制せず、石の力で思い通りになっていると誤認してしまうと非常に厄介なことになります。それだけで思い込んでしまっている人にとっては、その人の中の常識は機能しておらず、ただ自らの獣として認識して行動を取っていることになってしまいます。これを本当に人間と呼べるでしょうか。

人間の欲望というのは大概、思うだけでは叶うことはありません。欲望を抱くということは、それに見合うだけの行動を現実の肉体で行動して実現できるだけの力を身に付けなければいけません。パワーストーンのおかげと思うのは勝手ですが、それはほとんどの場合買ったことで満足して気持ちがそういった方向に動いたことで肉体がその夢を実現できたということに繋がる人もいるのです。石自体に力が込められているかは、結局のところ決めるのはそれを手にした自分なのです。

商売としての機能

現代の私達の心は非常に擦り切れる生活を送っている人がほとんどでしょう、今の自分たちに満足することもできない、自分たちを抑制している社会に対して打破することを要求しない、だからこそ不満というものを溜め込んでいると思っています。そして自分ではどうしようもないからオカルトに対して願掛けを行なうに、答えが行くのかもしれません。それに対して否定的な意見をする人もいるでしょう、そして反論する人も存在するに決まっています、でも本質的には同じことを考えているのかもしれません。奇跡というものが本当にあったらどれだけ良いことか、と。

願いを持つことは悪くないでしょう。むしろ持つことで人間の活力として機能して、暗い道を照らす目印にもなります。ただ与えられるだけの人生というものはつまらないものです、そんな状況を改善するためにパワーストーンといったものを利用することで道しるべとする、そう考えている人もいるでしょう。

パワーストーンというものがここまで利用されている社会になったのも、今の私達の生活から与えられるストレスへの逃げ道、として認識されているのかもしれません。だからこそ、いまだにオカルトというものは老若男女、どの世代でも信じられているのです。

TOP