オカルトといえば、呪い

呪術

魔術という存在を用いて日常生活を送るというの理解していると思いますが、それ以外にも魔術は別の方法で利用されていることがあります。よくあることですが、特定の何かしらの怨恨が存在している人間を呪い殺して欲しいと言う事で魔術を行使することもあります。この魔術のことを一般的には『呪術』と呼んでいます。字からしてみると明らかに否定的な意味が混じっていることは何となく理解できるでしょう、日本的に分かりやすい道具の礼を上げるなら『わら人形』といえば連想しやすいでしょう。特定の人間の髪の毛を人形の中に入れて収めることで、その人形を傷つければ髪の毛の本人に対して側に近づくことなく危害を与えることができるという代物です。そういう意味では日本人にとっては呪術のアイテムということでは定番中の定番とも言えるでしょう。実際にやったことがあるかどうかということはあまり聞きませんが、髪の毛を入手するということが結構難しいだろうと思います。タイミングよく抜いて利用するということもできませんし、落ちている髪の毛を根こそぎかき集めても、専用の道具を使用しなければどれが誰の髪なのか分かりませんからね。だからこそ、わら人形というものを利用するときには近親者を狙って儀式を行なっている光景がよく描かれているのかもしれません。

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呪術の理論

呪術と言っても簡単に一つにまとめることは出来ません、そこで人類学者である『サー・ジェームズ・ジョージ・フレイザー』は文化進化主義の観点から、呪術というものを二つの分類に分けることに成功した。それが『類感呪術』と『感染呪術』の二つに分けられます。

類感呪術というものは、求める結果を模倣することで目的を達成使用する儀式のことを指して、主な例としては雨乞いなどの自然現象を模倣することになります。一方で『感染呪術』というのは、呪術を行使したい人間に近いものを用いることで、対象者に対して呪いを与えるということ、先ほど説明したわら人形に関してはこちらの感染呪術に該当することになります。

またフレイザーは進化主義的な解釈を行なうことで、宗教は劣った呪術から進歩したものとなっていると解釈しましたが、これに対して『エミール・デュルケーム』は批判的に継承して、本来は手段的な現象である宗教的現象が個人において現れている場合、呪術という形で体現すると指摘しています。また機能主義的な立場から呪術や宗教が安心感をもたらしているということを指摘して、動機という点から人に禍をもたらそうとする呪術については『黒呪術』と呼び、雨乞いや病気回復など公共の利益をもたらそうとする呪術を『白呪術』と肯定しました。ところが呪術そのものが超自然的なものであるということを考慮に入れても、意図的なものと非意図的なものがあるとしたら『エヴァンズ=プリチャード』は前者を邪術、後者を妖術として区別する必要があるとも主張しています。

そう考えると、作為的に行なわれているか否かで全く意味が異なるということもなるし、またそれが個人的なものなのか全体的なものなのかということになるかで、呪術も性質が異なってきてしまうということです。

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呪術を利用する社会的背景

呪術を利用するということは必ず何かしらの理由が発生して行なうことになりますが、白呪術的な立場から言わせもらうと干上がった農地に水の恵を与えてもらわないと全員飢え死にしてしまうなどの樹が問題などで多く利用されていたことでしょう。そういう意味では呪術ということで人柱として身を投じることになるいけにえを行なうということも実際の歴史の中で行われていたこともありました。もちろん非人道的な行いですから、現在でそのようなことを行なってしまえば犯罪として認識されます。

また黒呪術というものは単純に呪いたい人間に恨みや憎しみを抱いていることで利用することになる術ですから、こちらの方ではほとんど意味としては個人的な感情によるところが大きくなります。同じ呪術においても人助けをしているか否かという点でも異なっていることが、大きな違いとして認識できるかもしれない。

ですが呪術を使用することになったとしても、前者でしたらまだ理解できますが後者の場合は完全に個人的な感情から出ている欲望に促されて行っているところが一番強いでしょう。ではどうしてこのようなことが起きるのかということになりますが、やはりそれも人間同士の生活環境という中で生じてしまう関係性で歪みというものが生じているところが大きいのではないでしょうか。

人間誰しも不安に陥って他人を信じられない、また世界そのものを信用することが出来なくなった、そんなことがあってもおかしくない世の中です。そういった不安なことから逃げるという意味で誰かに導いてもらいたいと考えている人も多いのではないでしょうか。だからこそ、こうした呪術を扱うシャーマンなどが活躍することにもつながり、そしてシャーマンを中心とした環境が全ての基準として人間同士の生活を支えることになる当ことになっていくのかもしれない。いわば、呪術を利用するシャーマンという存在は絶対的な存在であり、また同様に崇拝されるべき存在でもあるという風に見られていたのです。これは中世ヨーロッパなどで行なわれていた街づくりとよく似ています。ヨーロッパでは教会の存在が絶対的なものとなっています、そして教会の存在を中心点に考えて街は作られていきますから、あながち理論というものは引き継がれているということです。

日本で考えると一番分かりやすい例というものが邪馬台国に存在していたと言われている女王『卑弥呼』の存在でしょう。彼女もまた国を動かすだけのシャーマンとして活動していたこともあって、人々から崇拝される存在にありました。文化は違っても、そういった遠い時代から人間としての行動は前からつながりというものを見せていたのかもしれません。

しかしこうした呪術は基本的に人々の暮らしを支えるものばかりという封には見られていなかったのも事実となっており、その力を行使することで人間の殺害を実行することも出来たと考えれば驚異的なものだったという風に考えられます。そうですよね、自分の予期しないところで生命の死の瞬間を迎えるということはなんとも無常なことでしょう。ですが呪いから逃れることも出来ないとなれば、人はその呪術を利用することの出来る人間を崇拝するということをしなければいけないという風になるでしょう。

呪術を行使することで社会的不安を取り除く

ですがこうした呪術を枷にすることで人々の生活から不安を取り除くということを考えたとき、それは心理的なブレーキを掛けられます。一定のルールが存在しなかった村などでは特に法律などの代用品として呪術を村を統治することになる存在となりえるのです。そうすることで個人で抱え込むことになる不安や不幸といった負の要素を取り除くことで安心して、社会の中で生活することができるようになるとも考えられていました。そういったことを鎮圧するためにも呪術というものが必要だった、ということを明確に証明しているのです。

オカルトで人を統治しているというのは現代科学の世界ではありえないことですね、実際に存在しているかど羽化も分からないようなものを信奉していたのですから、当時の人々がいかに普段の日常を怯えながら生活を送っていたのか、今の私達の世界ではあまり考えられないことかもしれません。だからこそそういった環境で構成された村などでは呪術という存在が人々の心の支えとして成立していたというのも納得できるでしょう。

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